「最低でも国外」は可能

 と言っても、今話題になっている例の迷走中の「移設」の話ではありません。


 以前、日本の大学の国際化について、大勢の大学の先生がたを前に講演をした時に、ある先生からこんな質問を受けました。「私は、物理の教員で英語が苦手なのですが、日本の大学で物理を英語で教えるのであれば、どの程度のレベルの英語であればいいのでしょうか?」私は、「教えたい授業の内容が、学生たちにきちんと理解してもらえるのであれば、英語の発音や文法や綴りが多少おかしくても、気にする必要は全くないと思います」とお答えしました。

 「自分が、格好よく流暢に完璧な英語を話せればいいのに」と、考える人は多いでしょう。ましてや大学の先生ともなれば、学生たちの前で中途半端な英語は話したくない、と思うのは当然です。しかし、英語を母国語としている国の子供たちが、完璧な英語を話している訳ではありませんし、大人だって(特に移民の多いアメリカのような国では)、「何とか通じる英語」をしゃべっている人たちが実に多いのです。考えてみれば、私たち日本人だって、「完璧な日本語」を使える人などいないのではないでしょうか。

 情熱と充実した内容さえあれば、日本の先生たちの「不完全な英語」による授業は、むしろ学生たちに「ならば自分も、勇気を出して英語を使ってみようかな」という気にさせるための「カンフル剤」になるはずです。

 私は、17年前に大学院留学のためにアメリカに渡り、それ以来、ずっと住み続けていますが、何を隠そう中学・高校・大学時代は、英語の劣等生で、成績はいつも最低でした。しかし、興味のあるものを追い続けるうちに、国外でもう十数年間もなんとか英語を使って勉強し仕事を続けられているのは、よくよく考えてみると我ながら不思議な気がします。「最低でも国外」は、十分可能なのです。


 日本の学生や若い研究者の皆さんは、「英語に対する苦手意識」など気にせずに、是非外国で勉強したり研究をしたりする経験を少しでも積んでほしいと思います。